縄文時代、八ヶ岳のふもとの茅野市に、人がたくさん住む村があった。しかもその人たちは栗の木を育てて、実を食べ、幹で家を建てていた。
私がこの話を知ったのは、茂木誠先生のYouTube(もぎせかチャンネル)でした。茅野市の「なかっぱら」の人口が凄かったこと、栗の木を栽培して栗を主食にしたり、栗の木材で建築していたこと。正直に書くと、私はまだ現地に行ったことがありません。
それでも引っかかったのは、栗が私にとって身近な木だからです。そして、ひとつ大きな疑問が残りました。縄文の人が栗を「栽培」していたなら、それを農業の始まりと言ってよいのか。教科書では、農業は弥生時代の稲作から始まる、と習ったはずです。
そこで、茅野市の公式資料、研究者の論文、人口の推定などを読み比べ、よく聞く4つの説を「何と言っているか」「根拠は何か」「確かめた結果どうだったか」の3つで仕分けました。入口は、国の特別史跡の尖石遺跡と、国宝の土偶仮面の女神が出た中ッ原遺跡です。
先にお断りしておくと、縄文時代の話は、新しい発掘や分析の方法が出るたびに書き換わってきた分野です。多数派の説が正しくて少数派がまちがい、という読み方はしません。ここでは、根拠がどこまで届いているかだけを見ていきます。
尖石遺跡と仮面の女神の中ッ原遺跡はどこ?何が見つかった?
尖石遺跡と中ッ原遺跡は、どちらも長野県茅野市、八ヶ岳の西のふもとにある縄文時代の村の跡です。尖石は国の特別史跡で、縄文の村の形を初めて明らかにした場所。中ッ原は約1,000年続いた村で、2000年に国宝の土偶「仮面の女神」が見つかりました。
中ッ原遺跡:約1,000年続いた尾根の上の村
中ッ原遺跡は、縄文時代中期(約5,000年前)から後期前半(約4,000年前)まで、約1,000年続いた村の跡です。長さ320m・幅100mの尾根の上にあり、平成4〜13年の発掘で、竪穴住居の跡が200軒以上、柱や墓、黒曜石をためた穴などが3,300余り見つかりました※1。新潟のヒスイや、遠くから運ばれたコハクも出ていて、ほかの土地と行き来があった村だと分かります。
仮面の女神:墓の穴から横たわった姿で
仮面の女神は、2000年8月23日に中ッ原遺跡から出た土偶で、高さ34cm、重さ2.7kgの中が空洞の造りをしています。縄文時代後期前半(約4,000年前)のもの※2。墓の穴が集まる場所の、70号土坑という穴の中から見つかり、平成26年(2014年)に国宝になりました※1。
尖石遺跡:縄文の「村の形」研究の出発点
尖石遺跡は、中ッ原の近くにある縄文時代中期の大きな村の跡で、国の特別史跡に指定されています。発掘したのは地元の考古学者・宮坂英弌(ふさかず)。戦争をはさんで1952年まで掘り続け、家の跡が広場を囲むように並ぶ「村の形」を明らかにしました※4。近くの棚畑遺跡から1986年に出た土偶「縄文のビーナス」(高さ27cm)は、1995年に縄文時代の物として初めて国宝になっています※3。
つまり茅野市には、国宝の土偶が2体あり、日本の縄文研究の出発点になった遺跡まである。八ヶ岳のふもとが「縄文の都」のように語られるのは、この重なりがあるからです。
中ッ原の人口は凄かった?縄文の推定人口の数字で確かめると?

説:八ヶ岳のふもとは縄文時代に人がとても多かった。根拠:遺跡の数から逆算した推定では、縄文中期の中部は約7万1,900人、関東は1km²あたり2.98人で全国一の密度。結果:「日本でいちばん人が密な地域のひとつ」は裏付けあり。ただし中ッ原の200軒は1,000年分の合計にあたります。
推定人口の数字
縄文時代の人口でよく引かれるのは、人類学者の小山修三さんが出した推定があります。遺跡の数から時代ごとの人口を逆算したもので、縄文中期(約4,300年前)の全国の人口は約26万1,300人。このうち中部(山梨・長野・岐阜)は遺跡2,995か所・約7万1,900人とされています※5。
関東は約9万5,400人で、1km²あたり2.98人。全国の縄文時代で、もっとも人の密度が高い地域と時期にあたります※6。今の日本の感覚からすると少なく見えますが、狩りや採集で暮らす社会としては、かなり人が集まった状態です。
「200軒」は同じ時に建っていたわけではない
ここで1つ気をつけたいのが、中ッ原の「家の跡200軒以上」という数字です。中ッ原は約1,000年続いた村なので、【推測】200軒は1,000年のあいだに建て替えた家の合計で、同じ時に200軒が並んでいたわけではありません。竪穴住居は数十年ごとに建て替えるのがふつうなので、同じ時期に暮らしていた家は、その一部だったはずです。
「凄かった」は本当か
確かめた結果を並べると、「八ヶ岳のふもとを含む中部・関東は、縄文中期に日本でいちばん人が密な地域だった」は、推定値の裏付けがあります。一方で「中ッ原が日本一の人口だった」と書いた一次資料は、今回の調べでは見つかりませんでした。小山さん自身も、確かなのは数字の上1桁くらいだと断っています※6。数字は目安として読むのが正確な付き合い方になります。
縄文人は栗の木で家を建てた?建材説の根拠は?
説:縄文の人は栗の木を建物の材料に使った。根拠:青森の三内丸山遺跡で、直径約1mの栗の柱6本が見つかっている。結果:裏付けあり。割りやすく腐りにくい栗は、縄文の建物の材料として特によく選ばれた木です。八ヶ岳での使い方の細部は、まだ調べ切れていません。
三内丸山の6本柱
栗の木を建物に使った証拠でいちばん有名なのは、青森市の三内丸山遺跡です。1994年に、直径約1mの栗の柱の跡が6本見つかり、大きな建物があったことが分かりました※7。復元された6本柱の建物は、今では遺跡を代表する姿になっています。
なぜ栗だったのか
栗の木は、木目がまっすぐで割りやすく、水や腐れに強い性質があります。地面に柱を立てる竪穴住居や掘立柱の建物には、ぴったりの材料です。【推測】しかも同じ木から食べる実もとれるので、村のまわりに栗の林があれば、食べ物と建材を1か所でまかなえたことになります。
八ヶ岳ではどうか
中ッ原縄文公園では、並んだ柱の穴から8本の柱を推定で復元しています※1。ただ、もとの柱が何の木だったかは、今回読んだ資料では確かめられませんでした【未確認】。「栗の木で建てた」は縄文全体の話としては裏付けがあり、八ヶ岳の村の柱の種類までは、まだ決まらない、という整理になります。
縄文人は栗を栽培していた?DNAと実の大きさが示したものは?
説:縄文の人は栗の木を選んで育てていた。根拠:三内丸山遺跡の栗のDNAが野生よりそろっていたこと、東京の下宅部遺跡で栗の実が大きくなっていったこと。結果:「人が選んで残し、育てた」は裏付けあり。ただし八ヶ岳での直接の証拠は、まだ見つけられていません。
DNAに残った「人が選んだ跡」
三内丸山遺跡から出た栗をDNAで調べたところ、野生の栗よりも遺伝子のばらつきが小さいことが分かりました※7※8。ばらつきが小さいということは、【推測】人が良い実をつける木を選んで残し、ほかの木を切っていった結果だと読めます。畑に苗を植えるというより、村のまわりの林を手入れして「栗の多い林」に変えていった姿に近いのでしょう。
林ごと管理していたという研究
植物考古学者の能城修一さんたちの研究では、縄文時代の早い時期から村のまわりの植物を管理して使う暮らしがあり、前期以降は栗を中心に林を管理していたことが報告されています※9。東京都東村山市の下宅部遺跡では、時代が下るにつれて栗の実が大きくなっていく様子も示されました※11。
まだ決まらないこと
ここまでの証拠は、青森や東京など八ヶ岳の外のものです。八ヶ岳のふもとで、栗の花粉やDNAから「育てていた」と直接示した資料は、今回の調べでは見つけられていません【未確認】。尖石を掘った宮坂英弌が、ワナ猟と栗の林と黒曜石の暮らしを描いていたことは伝わっています※4。八ヶ岳でも同じことが起きていた可能性は高い一方、証拠の上ではまだ決まらない段階です。
栗は縄文人の主食だった?
説:縄文の人は栗を主食にしていた。根拠:栗の林を管理し、栗が多く出る遺跡があること。結果:「主食のひとつ」なら言えるが、「栗が主食」と言い切るのは言いすぎです。縄文の人はクルミ・トチ・ドングリ・マメ・シカ・魚などを組み合わせて食べていました。
栗は大事な食べ物だった
三内丸山遺跡では、栗・クルミ・トチなどの木の実がたくさん出ています※7。【推測】中でも栗は、ドングリやトチのような水にさらして苦みを抜く手間がほとんど要らず、そのまま焼いたり煮たりして食べられます。手間の少なさで言えば、木の実の中でいちばん扱いやすい食べ物です。
それでも「主食」と言い切れない理由
ただ、縄文の人の食事は1つの食べ物に頼るものではありませんでした。八ヶ岳のふもとでは、シカやイノシシの狩り、川の魚、そしてあとで書くマメも食べていたことが分かっています※10※11。骨の成分から「植物をよく食べていた」ことまでは分かっても、その中の何割が栗だったかは、今の方法では測れません。
確かめた結果は「栗は主食のひとつ」まで。茂木先生の動画で聞いた「栗を主食に」という話も、栗が食卓の中心にあった季節や村があった、という意味なら、根拠のある話になります。
縄文の栗の栽培は「農業の始まり」と言ってよい?

説:縄文時代にはもう農業があった(縄文農耕論)。根拠:八ヶ岳のふもとで多く出る石の道具、土器に残ったマメの跡、大きくなった栗の実。結果:「植物を選んで育てる栽培」は裏付けあり。「農業の始まり」と呼ぶかは農業の定義しだいで、研究者の間でもまだ決まらない段階です。
ここが、私がいちばん知りたかったところです。この栽培を、農業の始まりと言って良いのかどうか。
八ヶ岳から生まれた「縄文農耕論」
実はこの問いは、八ヶ岳のふもとから始まった論争でもあります。長野県の考古学者・藤森栄一は、井戸尻遺跡などの発掘をもとに、縄文時代中期にはすでに農耕があったと唱えました※10。根拠にしたのは、土を掘る道具とみられる打製石斧や、実をすりつぶす石皿など、八ヶ岳のふもとでたくさん出る道具です。
ところが、稲の籾のような「作物そのもの」が見つからなかったため、藤森の説は生きているあいだは認められませんでした※10。道具だけでは、野生の植物を掘っていたのか、育てていたのかを区別できなかったからです。
新しい方法が、古い説を見直させた
流れを変えたのが、土器の表面に残った小さなくぼみを調べる方法でした。くぼみにシリコーンを流して型をとり、顕微鏡で見ると、土器を作るときに粘土に入りこんだ種の形が分かる仕組みです。この方法で、縄文時代中期の中部日本では、野生のものより粒が大きくなったダイズやアズキの仲間が使われていたことが分かってきました※11。
野生の植物が人に育てられると、種が大きくなる、眠らずにすぐ芽を出す、といった変化が起きます※11。マメの粒が大きくなっていたことは、人の手が入っていた証拠のひとつになります。このあたりの研究は、中山誠二さんのマメと縄文人(同成社, 2020年)に詳しくまとめられています。
では「農業」と呼べるのか
確かめた結果を整理すると、次の3段になります。
- 植物を選んで育てる「栽培」は、縄文時代にあった。 栗のDNA、栗の実の大型化、マメの粒の大型化という3つの裏付けがある
- 「農業」を「田畑を作り、そこでとれる物で主に食べていく暮らし」と決めるなら、縄文はまだそこまで行っていない。 狩りや採集の比重が大きいまま
- 「農業」を「人が植物を管理して食べ物を得ること」と広く決めるなら、縄文中期の八ヶ岳は農業の始まりの場所のひとつになる
どちらの定義をとるかで、答えが変わる問いです。研究者の中にも両方の立場があり、私が読んだ限りでは決着していません。言葉を選ぶなら、「農業の芽」や「森の畑」くらいが、今の証拠にいちばん合う言い方だと感じます。藤森栄一が八ヶ岳で見ていたものは、半世紀あまりたって、新しい分析の方法で少しずつ裏付けを得てきました。少数派だった説に、証拠のほうがあとから追いついてきました。
寒冷化で八ヶ岳の縄文人は住む場所を変えた?今の気候変動でも起こる?
説:縄文中期の終わりの寒冷化で、八ヶ岳の大きな村は消え、人が散らばった。根拠:中部の推定人口が中期の約7万1,900人から後期に約2万2,000人へ減ったこと、約4,300〜4,200年前の寒冷化の記録。結果:人口が減り村が小さくなったのは裏付けあり。原因が寒さだけかは、まだ決まらない段階です。
人口は3分の1以下に
さきほどの小山修三さんの推定では、中部の人口は縄文中期の約7万1,900人から、後期には約2万2,000人、晩期には約6,000人まで減っています※5。後期で中期の3分の1以下、晩期では約8%です。全国でも、中期の約26万1,300人が晩期には約7万5,800人と、3割ほどになりました※5。中ッ原の村が後期前半で終わっているのも、この流れの中にあります※1。
寒冷化という説と、別の説
理由として有力なのが寒冷化です。約4,300〜4,200年前に寒くなる出来事があり、関東では約4,400〜4,000年前を「寒冷期」とする研究もあります※12。同じころ、広場を囲む大きな環状の村がくずれ、小さな村に分かれていったことも報告されています※12。
一方で、寒さだけで全部を説明できるわけではありません。病気の流行や、社会の仕組みの変化を理由に挙げる研究者もいます【推測:今回読めた資料では、気候と人口の因果関係を数字で確かめ切ったものは見つかりませんでした】。寒冷化は「有力な理由のひとつ」で、ほかの説と組み合わせて考えるのが今の段階です。
今の気候変動でもあり得るのか
この話を読んで、私は、寒冷化が住む場所を変えてしまう、現代の気候変動でもあり得るのかもしれない、と思いました。
【推測】食べ物がとれる場所が動き、それにつれて人の暮らす場所が動く、という形は、今の時代にも起こりうる話です。ただし違いもあります。縄文の寒冷化は数百年かけて進んだ「寒くなる」変化で、今の気候変動は数十年単位で進む「暑くなる」変化です。向きも速さも違うので、縄文の出来事をそのまま今に重ねることはできません。それでも、気候が変わると、何千年も続いた暮らし方でも形を変えざるを得ない。八ヶ岳の村の1,000年は、そのことを教えてくれます。
尖石遺跡と中ッ原の栗の話を、自分の栗の記憶と重ねてみると?
尖石遺跡や中ッ原遺跡の栗の話は、遠い昔の研究の話であると同時に、今の私たちの暮らしにもつながっています。栗は、縄文の人にとって食べ物と建材の両方をくれる木で、今の私たちにとっても季節を感じる身近な木です。
神社の栗の木
私の子どものころの栗の記憶は、近くの神社です。神社に栗の木があって、栗拾いをしたり、栗を投げて遊んだりしていました。拾った栗で、栗ご飯も食べました。親は今でも、よく栗を食べています。
縄文の人が村のまわりの栗の林を手入れしていた話を読んで、その神社の栗の木を思い出しました。村の近くに栗の木があって、人が実を拾い、食べる。形は違っても、栗と人の付き合い方は、何千年も続いてきたのかもしれません。
服の話ともつながる
縄文の人の暮らしは、食べ物や家だけでなく、着るものにも工夫がありました。縄文と弥生の服の違いは、服の歴史を日本と世界の年表での記事にまとめています。あわせて読むと、八ヶ岳のふもとの暮らしがもう少し立体的に見えてきます。
まとめ:尖石遺跡と中ッ原遺跡、縄文の栗の4つの説の判定


- 人口が凄かった:裏付けあり。 縄文中期の中部は約7万1,900人、関東は1km²あたり2.98人で全国一の密度。ただし中ッ原の200軒は約1,000年分の合計
- 栗の木で家を建てた:裏付けあり(縄文全体)。 三内丸山の直径約1mの6本柱は栗。八ヶ岳の柱の種類は、まだ決まらない
- 栗を栽培していた:裏付けあり(八ヶ岳の外)。 DNAと実の大型化が「人が選んで育てた」ことを示す。八ヶ岳の直接の証拠は、まだ見つかっていない
- 栗が主食だった:言いすぎ。 「主食のひとつ」までが確かめられる範囲
- 栽培は農業の始まりか:定義しだいで、まだ決まらない。 藤森栄一の縄文農耕論は、マメの研究で見直されてきた
- 寒冷化で住む場所が変わった:人口減少と村の縮小は裏付けあり。 原因が寒さだけかは、まだ決まらない
教科書の「縄文は狩りと採集、農業は弥生から」という線は、この数十年で少しずつ動いてきました。尖石や中ッ原の土の中には、まだ答えの出ていない問いが残っています。私もいつか、仮面の女神の実物を見に行ってみたいと思います。
中ッ原と同じ諏訪の土地で、縄文の石棒を御神体にする神の話はミシャグジ様の記事に、長野の上田に並ぶ寺社と龍脈の話は生島足島神社と上田のレイラインの記事にまとめています。
出典
- ※1 中ッ原遺跡(茅野市)
- ※2 仮面の女神に関する資料(PDF)(茅野市)
- ※3 縄文のビーナス(Wikipedia)
- ※4 尖石遺跡(Wikipedia)
- ※5 近代以前の日本の人口統計(Wikipedia。小山修三の推定を引く)
- ※6 遺跡調査会Q&A(三鷹市遺跡調査会)
- ※7 三内丸山遺跡(Wikipedia)
- ※8 三内丸山遺跡シンポジウム資料(総合地球環境学研究所)
- ※9 縄文時代の植物資源利用に関する研究(能城修一ほか)(科学研究費助成事業データベース)
- ※10 藤森栄一(Wikipedia)
- ※11 縄文時代の植物利用と栽培に関する講座資料(PDF)(神奈川県)
- ※12 縄文時代の気候と社会に関する講座資料(PDF)(神奈川県)
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